憲法なき国(?)があるというので
- 英米法研究会 企画・広報担当
- 2024年5月16日
- 読了時間: 7分
更新日:2024年12月22日
こんにちは。中央大学英米法研究会 企画・広報担当です。今更ではありますが、ゴールデンウィーク、いかがお過ごしでしたでしょうか。執筆者はひたすら外出でしたが、羽は伸ばせていたつもりです。......つもり。
さて、日本においては毎年5/3にゴールデンウィークを構成する祝日の一つである「憲法記念日」が設定されています。言わずもがな、現在の日本国憲法が1947年のこの日に施行されたことを記念するものです(公布は1946年11月3日 いわゆる「文化の日」)。
中央大学法学部においては国際企業関係法学科生向けに1年次春学期に『憲法』の講義が、法律学科・政治学科生に対しては1年次秋学期に『憲法1(人権)』、2年次春学期に『憲法2(統治)』の講義がそれぞれ設定されています。なお、国際企業関係法学科学生向け『憲法』は所属学生全員が、法律学科・政治学科学生向け『憲法1(人権)』『憲法2(統治)』は法律学科生のみがそれぞれ必修の科目であるほか、これらの講義にはすべて4単位がかかっているため、心して臨みましょう。
今回のブログで取り上げるのは、この「憲法」について。日本は明治時代に制定された大日本帝国憲法から一貫して成文化された憲法をその他の一般法よりも格上の存在として設けるという方式を採用しており、このような方式は多くの諸外国においても政治体制や内容を問わず採用されています。こうした方式における憲法はその国の理念たる内容を定め、国家による権力行使に枠をはめるという役割を担っています(立憲主義)。
しかし、世界には『明確に「憲法」と呼ばれる法律をもたない国』というのもまたあるのです。憲法をもつ国であるわたしたちからすれば奇異なようにも思えますし、もしかすると「憲法がないなら国家が無限に人権侵害できるのでは」などと考える方もいるかもしれません。でも、実のところそうではありません。憲法を持たぬ国には、持たぬ国なりの背景ややり方があります。
「憲法なき国」の歴史
成文化された憲法典をもたないまま成り立っている憲法を「不文憲法」といいます。このような不文憲法の場合、制定されてきた数多の法の数々が憲法の内容をも兼ね、その法改正が憲法改正をも兼ねる、といったケース(軟性憲法)が代表的です。他方、日本やアメリカなどのもつ明文化された憲法のことを「成文憲法」といい、改正にあたって一般法(ここでは「憲法以外の諸法令、規則等」の意)よりも高いハードルが設けられている(硬性憲法)ケースが大半です。前者のような「不文・軟性憲法」を採用している国の代表例こそが、英米法系のルーツたるイギリスなのです。英米法研究会と称するくらいですから、ここではイギリスを例に記していきます。
(注:少なくとも東京書籍版 高等学校公民科用『政治・経済』(2021年発行)における不文・軟性憲法の国として言及があったのがイギリスだったため、「代表例」としても差し支えないはず......ですが)
イギリスにおいては13世紀初頭におけるプランタジネット朝 ジョン王(言わずと知れた(?)失地王)の対仏戦争敗北から財政難と重税課税を招き、それが直接的な原因となって貴族連合が王に対して反乱を起こしました。その結果、ジョン王は1215年に貴族側から提示された『大憲章(Magna Carta)』を認めさせられ、歴史的背景から元来強かった王権に制限がかけられることとなりました。この大憲章の一部はイギリスにおける不文憲法の構成要素のひとつとして現在でもなお効力を発揮しています。その後、次の王の大憲章無視からふたたび反乱が発生。王を破ったのち、反乱の首謀者たるシモン=ド=モンフォールが高位聖職者、大貴族、州および都市の代表を集めて国政を協議させました。1265年に始まったこの会合がイギリス議会の起源とされており、1295年に時の国王エドワード1世自ら召集した「模範議会(Model Parliament)」を経て、14世紀後半には現在の上院・下院の二院制が完成。これを起点に議会はその活動を重ね、やがて「議会主権」へと発展し、時には国王と協力し一体となって、時には国王に対抗する勢力として、イギリスを動かす存在となってきました。実はこの「議会主権」こそが成文憲法を持たない所以のようなものであり、ゆえに上述の通り憲法を構成する法の改正が憲法改正をも兼ねるのです。なお、この表現については "Constitution" と "Constitutional Law" の2つの用語の和訳問題が関わっていますが、ここではあまり深くは立ち入らないでおきます。
14世紀以降、大憲章はしばらくの間忘れ去られてしまうものの、国王と議会の対立が先鋭化していった17世紀にふたたび脚光を浴びるようになりました。この時期といえば、エドワード・コークによるヘンリー・ブラクトンの法諺の引用が注目を浴び、「法の支配」の概念が急速に普及していったことが有名です(大憲章発布の時点で法の支配そのものは確認されていたものの、広まるのはこの時から)。それにとどまらず、この大憲章の内容がアメリカの独立戦争、フランス革命の根拠としても目されるようになっていき、王権の制限を掲げてできた大いなるテキストが王権への抵抗や打倒に繋がったともいえます。結果としてイギリスでは清教徒革命および名誉革命を経て王政復古し、アメリカ13植民地は「アメリカ合衆国」として独立。フランスでは王朝が打倒され、市民による政府が樹立されるに至りました。
また、これ以降イングランドとスコットランド、アイルランドの3王国の「合同化」が時間をかけて進んでいき、その法的根拠たる法律も成立していきました。
変わらないなかでも、変わりゆく
時は一気に進み、2003年。イギリスにて「市民緊急事態法」の審議が進むなか、議会によって「イギリスの憲法を構成する法律群」とされる法律や宣言、文書をまとめたリストが提出されました。そのリストには上述の大憲章のほか、王政復古後に定められたいわゆる「君臨すれども統治せず」の原則を確立した権利章典、上述の合同法、そのほか中世〜近代期に成立した王家・統治機構関連の法律が名を連ねていました。このリストそのものが、世界に先駆けて早くから立憲君主制、法の支配を確立し、そして2本目の記事でも取り上げた判例法主義にも助けられ、明確な「憲法典」を持たずとも立法の積み重ねがイギリスにおける憲法を構成していっていることの何よりの証左といえるでしょう。また、このリストにある法律は伝統的に改正の動議があまりかけられない(大半の場合、新たな立法で旧法を置き換える)ことから硬性憲法と同等程度の普遍性、安定性が保たれています。
とはいうものの、大きな変化がないわけでもないのです。2009年にはこれまで枢密院に属していた終審裁判所としての(日本における最高裁判所の)役割を、新たに設立した連合王国最高裁判所に移管することとなりました。これまでは司法の最高部が枢密院というかたちで行政府(国王)に極めて近い存在にあったことから、つい最近になってようやく完全体に近い三権分立が実現を見ることとなりました(下級裁判所はこれまでも独立)。
「明確な憲法を持たぬ国」イギリスにおける国家の根本たる法は、中世から続く国王に対する抵抗の歴史と、数百年にわたって続く議会主権と法の支配の賜物として連綿と紡ぎ出され、織りなされてきたものでした。人々の自由への飽くなき希求と古き良き伝統の継承が、戦争や国際情勢の大きな変化をも乗り越え、西欧の大いなる立憲君主制国家 イギリスの揺るがぬ法哲理を打ち立てているのです。
いかがでしたでしょうか。ブログという軽いノリで書くはずが、だいぶ長くなってしまった感は否めません。しかし、それだけイギリスにおける法の歴史は深いということもまたいえます。英米法の奥深さはなにも法律の内容そのものだけではありません。立法に至るまでの歴史的背景などを読むこともまた、魅力のひとつなのです。この記事でも、それ以外でも。皆さんが少しでも英米法に、そして、わたしたち英米法研究会に興味をもってくれるきっかけになれると嬉しいです。それでは、また次回のブログでお会いしましょう。
それでは、閉廷。
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